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断想

生きる意味のなさとそれへの抵抗

正直にまじめに一生懸命に。それが僕の人生の生きる意味であった。そのように生きていけば、たとえ結果がどうであってもいい人生と思えるはずだ、という妙な確信を持っていた。しかし、生きていくうちにその確信は揺らいでいった。最初は揺れに気づいていたが、それでも何とか自分を保つことができた。だが、だんだんそれが難しくなってきた。僕は生きていくうえで、正直になれない瞬間、まじめになれない瞬間、一生懸命になれない瞬間が多く出てきた。そして社会に出始めたときはっきりと自覚した。自分の生きる意味は完全に間違っていた、というか、そんなものはなかったと。結果がどうであれまじめを貫くことがいいことだと思っていたが、社会ではあまりは役に立たない。僕は周りから褒められたいがためにそうしていたということを確信した。そうなってくると、自分の存在理由が分からなくなってきた。僕は周りに対して従順に生きてきた。それで周りが喜んでくれたらそれがうれしかった。僕はそれがりっぱなことだと思っていたが、ただ他人に依存しているだけであった。自分のやりたいようにやれ、利己的にガツガツと振る舞え、と社会は要求してくる。僕は困った。それに対する自分の態度を持ち合わせていなかった。利己心を探しても中々ない。食欲、性欲、睡眠欲はもちろんある。それを追求する程度には十分利己的だ。しかし、社会で他人を押しのけて利己的になることができなった。それを追求したくないという点では利己的ともいえるのかもしれないが。一生懸命利己的になろうとすると、競争に乗り出すことに利己心が向かず、できるだけ楽をすることに僕の利己心は傾いていった。無理をして社会的競争に参加しなくていいじゃないか、僕はそんなのごめんだ。それで気持ちが整えばよかった。しかし僕は余計に気持ちが乱れていった。人生に意味なんてないから程よく力を抜いて楽をして生きていこう、そうんな考えをしている自分に対して、嫌悪感を持つようになった。人生に意味なんてない、そんなにニヒリズムを手にしたつもりが、僕は十分にまだ意味を求めていた。どころか、意味がない人生なんて人生ではないと思った。意味がない人生は、単なる生存だ。それでいいと思いきれたらどれだけ楽か。僕はどちらにするべきか。人生を価値を求めるか、それとも人生を価値を棄却するか。僕の気持ちは今前者に傾いている。確かに人生に生きる価値はないかもしれない。しかし、そのないとは社会的にはないということだと思う。しかし、自分の価値はある。

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