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断想

好きの対象と距離

好きということは対象だけに依存するのではなく、対象との距離にも依存する。

先に結論めいたことを書いているが、もう少し詳しく書いてみる。

好きなものを職業にできたらいいよね、こんな意見は広く世に受け入れられていると思う。しかし、好きな職業とは一体何か?漫画が好きなら、漫画家が好きな職業なのだろうか?必ずしも、そうではないだろう。漫画が好きな人の大半は、漫画を読むのが好きなのだから。漫画を読むのだけが好きな人にとっては、描くことがもしかすると苦行になるかもしれない。

漫画を読むのが好きだったら、編集者のほうがいいかもしれない。いろんな漫画を読む機会が増えるだろうから。だが、すべての漫画読みにとって、編集者になることが好きな職業に就くことだと言えるのだろうか。これもそんなことないだろう。編集者は自分の好みで漫画を読むわけではない。売れる漫画は何だろうかと考えて漫画を読むことになるのだから。ある特定のジャンルだけ偏愛する漫画読みが編集者になってしまうと、好きではないジャンルの漫画を読むことも多くなるだろう。するとこれもまた苦行となってしまう。

漫画読み・漫画家・編集者、以上の3者が仮に好きでその肩書を持っていたとする(漫画読みを肩書というのは変かもしれないが)。中には嫌々肩書を持っている人もいるかもしれないが、今は除外する。そうなると、3者はそれぞれ「漫画が好き」という一点では意見が一致しているように見えるが、漫画との距離を考慮に入れると、それぞれ異なった意見を持っていると言うことができる。

漫画家は、一番漫画との距離が近いのかもしれない。自分の作品こそを一番に愛し、自ら創り出す人だ。漫画という森の中で、これから木を植え、それを丹念に育ていく人と言える。

漫画読みは、漫画とほどほどの距離をとっていると言えるかもしれない。漫画家ほど一つの作品だけを偏狭的に愛して創るのではない。基本は読むということに徹すする。中には批評をする人もいるかもしれないし、惰性的に目を通すだけかもしれない。漫画という森の中で、この木がいい、あの木がいいと言いて、木々を消費している人たちと言える。

編集者は、漫画と一番距離をとっている人と言えそうだ。編集者は自分の好みだけで漫画を扱うのではなく、読者の興味も含めて漫画を扱っていく。つまり漫画と同じだけ読者のことも考慮に入れているのだ。さらに、これから出てくる新人漫画家の育成という要素も、非常に大事になってくる。森の例でまた表現すると、漫画の森を俯瞰的に見て、どの木々に人々が群がっているのかということを分析する、そしてどのように森を作っていけばより人が集まるかを設計する人と言える。

ここで一つだけ付言を。距離をとると言うと、好き度が下がってしまうような気がする。しかしそうではない。好き度はその対象にどれだけコミットするかに依存している。自分で漫画を描くことが好きな人がいたとする。ある意味では漫画との距離は近い。しかし、1週間に15分しか漫画を描いていないとしたら、好き度はそれほど高いとは言えないだろう。逆に特定の熱烈な好きなジャンルがなくても、四六時中漫画のことばかり考えている人がいたら、その人の方が好き度は高いと言えるだろう。好きな対象にどのようにコミットしているときが一番時間を忘れて取り組めるか、それはその対象自身よりも重要になってくるのではないだろうか。

このように好きなものを考えようとしたときは、その対象だけではなく、その対象との距離も考慮に入れることが大切だ。もし、その距離を無視してしまい、自分の距離でその対象と接することができなくなってしまうと、せっかくの好きな対象が嫌いな対象に変貌してしまうかもしれない。人生において、好きなものが嫌いなものに変わってしまうことは、中々悲しい出来事ではないだろうか。

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