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断想

「老いた」という境界線

僕らは誰しも年老いていく。それは変えられない定めだ。老いることに対する僕らの態度は様々であろう。多くの人は老いを嫌ってアンチエイジングするだろうし、ある人は年を取ったと思われる前に、早めに自らでおじさんおばさんを演じて、ショックを和らげるという手を取る。はたまた、無駄な抵抗をせず、年老いることを受け入れるという理想的な(非現実的な?)態度もある。かくいう僕は、テレビに出ているキラキラした芸能人でも老けていくのだから、そうでない僕なども老けて当然か、と自分を慰めてみたりする。本当は、加齢なんかにビクリともしない、どでかい人間になりたい。それでも汚い肌が気になって、何とかできないものかといって、youtubeに流れる洗顔材の広告をじっと眺めている自分に気づいたりする。そんなときは無性に情けなくなる。いつしかどっしりと老いを受け止められる日が来るのだろうか。まったく見当つかない。ただ一つはっきりとわかるのは、それがまだまだ先だということだ。

ここで一つ疑問がある。僕らはいつ「老けた」といえるのか。みなさんも、例えばテレビで見る芸能人に対して、「あの人も老けたね」という感想を抱いたことはあるだろう。その老けたと思う境界線はどこにあるのだろうか。僕が特に記憶に残っている、この人老けたなと思う芸能人は、具体例を出すと悪いかもしれないが、松本人志さんだ。僕はまっちゃんが好きだ。今でもまっちゃんの出てる番組はよく見ている。いつぐらいだったか忘れてしまったが、たぶんここ5年以内のことだと思う。いつも通りテレビを見ていると、「まっちゃんも老けたな。」と急に思った瞬間があった。おぉ、これが「老いた」の境界線なんだという発見をした気持ちになった。しかしその目で、ちょっと前のまっちゃんを見ていると、その時は老けたと思っていなかったはずのまっちゃんが、老けて見えてしまったのだ。そうなると、僕のあの実感は境界線ではなかったということになる。女性車両に知らずと乗ってしまい、しばらく経ってから気づいて「ゲッ」と思うように、境界線を踏み越えてしばらく後に気づいたのだ。女性車両なら境界線を越えた瞬間ははっきりしているが、老けたという思いの境界線ははっきりしない。僕はもうかつてのような目でまっちゃんを見れなくなっていた。

もう一つ老いを感じる例で、誰もが感じるであろう例を挙げようとすると、親が挙げられるだろう。久しぶりに親と会うと、親の老いを感じて、なんとも言えない哀愁と愛情が湧いてくる経験をした人も多いのではないだろうか。僕は大学時代は実家を離れていたので、1年ぶりくらいに親と会ったとき、そのように感じたことがある。しかし最近は実家住まいなので、親の顔をよく見ている。すると不思議で全然老けたようには思はなくなっていた。確実に老けているだろうに。わざわざ親の過去の写真を見返したりしないからわからないだけかもしれない。はたまた、アハ体験みたいにじんわりとした変化だから気づかないんだよ、と説明されるかもしれない。しかしそれではさっきのまっちゃんの例は説明がつかない。まっちゃんはかなり定期的に見ているはずなのだが、ふとした瞬間に老いを感じてしまった。それに対して親の場合も定期的に見てはいるが、あまり老いを感じたことがない。なんだろうこの違いは。原因を考えてみると、あることに気がついた。僕は普段、しっかりと親の顔を見ていなかった。まっちゃんはテレビ画面越しではあるが、しっかりと見ている。一方親の顔は、リアルに会ってはいるが、まっちゃんほどしっかりと見ていなかった。こんどしっかりと顔を見てみようかな…いや、ちょっと怖いな。

 

老いて見えるのはもちろん老化に伴う肌や筋肉などの劣化が原因だろう。それは物理的なものが原因だ。となると、何らかの数値的な方法を使って老いを定義することができるのではないか、という考えももしかしたら出てくるかもしれない。しかしそれもきっとうまくはいかないだろう。

境界線のジレンマに関する哲学的思考実験がいろいろある。例えば「砂山の境界線」の思考実験。まずは100人中100人が砂山だといえる砂山を作る。そしてその砂山から、砂粒を1つだけ取り去る。さてここで質問です。「1粒取り去ったこれは、砂山ですか?」きっとあなたは「はい。」と答えるだろう。これを2粒3粒・・・と取り去る数を増やしていっても、同じようにあなたは答えるだろう。しかしそれを繰り返していくと、それがいくら途方がないといえど、必ずどこかですべての砂山を取り去る瞬間が来る。まっ平らな更地になる瞬間が。さすがにあなたはそれを砂山だとは言わないだろう。ではどこまでが砂山であったのか。

これが「砂山の境界線」の思考実験だ。

これを解決するにはどうすればいいのか。一つまず思い浮かぶのは、砂山の定義を数値化することである。例えば「1cm以上の高さになる砂の塊を砂山と呼ぶ」という風に定義してやればいい。そうすることで曖昧さがなくなる。しかしこれでは問題を解決したことにはならない。新たな問題は、砂山の数値的定義をどうやって決めるのかという問題だ。今は適当に1cmと言っていたが、「別に0.9cmでも十分砂山に見えるじゃないか。」という風に思う人もいるだろう。これではただ問題を先送りにしただけだ。

仮にそういう反対を押し切って1cmを砂山の基準として制定できたとしても、誰も問題が解決したとは思わないだろう。肩透かしを食らうというか、僕が知りたかったのはそれじゃないんだけどという感じ。

ここには日常的砂山概念と数値的砂山概念との対立がある。僕らが探求したかったのは日常的な砂山概念だったはずだ。それを改めて数値的砂山概念を作って解決しましょうというのはなんかずれている気がする。使い古したお気に入りの靴を修理してでも履きたかったのに、誰かさんにおせっかいにもその靴を捨てられてしまい、新しい靴をプレゼントされた感じに似ている。

老いの話にアナロジーすると、老いを数値化することで問題解決を図ろうとするが、その基準を決めること自体に本当の問題があることに気がつく、ということか。僕は日常的な実感を伴った老いを知ろうとしていたのに、実感の伴わない無機質な数値的老いに置換されたということか。

老いなんて人それぞれの感覚なんだから、そういう風な一義的な定義なんて不可能だよ、という反論の向きもあるだろう。そうすると今度は逆に、「〇〇さんも老けたよね」という話が共感を持って話し合えるということをどう説明すればいいのか。

物事は今言った両極端の中庸にある、といえるのかもしれない。僕はなかなか中庸を受け入れるような大人にはなれないようだ。

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