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哲学

「現実性の問題」③円環モデルについて

さて3回目ということで、「第1章円環モデルによる概観」で紹介されている円環モデルを中心に書いていこうと思う。まずは見たほうが早いと思うので、入不二さんのtwitterから引用しておく。

       ①画像       ②画像       ③画像入不二さんのtwitterより)

この円環モデルは本書をすべて包括するような図になっている。最初に見ただけではその深みはわからないが、本書を読み進めながら図を参照していくと、そのたびに最初に見せなかった様々な相貌が浮かび上びあがり、のっぺりした図が深みを持った図へと変貌していく。そんな状態でじっと円環を見ていると、円環の螺旋の中に吸い込まれるような錯覚さえしてくる。

円環モデルについて書いていくと最初に言ったものの、僕の中ではどういう風に書いていけばいいのかがよくわからなくなってきている。少しでも何かを言おうとすると、芋づる式に語ることが増えてきて、必ず言い足りないことが出てくるような気がしてならないからだ。

ここでは思い切ってテーマを絞ろうと思う。前回、円環モデルの要点で、「純粋な現実性のはたらき」のことを言及していたので、そのことだけに絞って今回は書いていくことにする(主に①と③にある、大きな矢印のはたらきについて)。


物事の始まりはなにであろうか。それを科学的に言えば、ビッグバン以前の圧縮された宇宙の種のようなものと言えるかもしれない。僕にはそれが何なのか、専門知識がないからわからないが、何はともあれ何かがあった。これがすべてだ。

しかし、真の始まりを探ろうと思うと、それより前の状態を考える必要があるのではないか?それは全くの無。宇宙の種のようなものもない、まだ何も起こってない状態を考えることのほうが、物事の始まりにはふさわしいのではないか。

しかし、それではいくつか疑問が残ってしまう。まず、無からどうやって何らかの有が生み出すことができるのか?それはとんでもない飛躍を含んでいるのではないか?有を前提にしないで生み出すのには、すごく無理があるような感じがある。そしてもう一つ、無とは結局、有を否定することでしか得られないのではないか?。無を説明しようとすると、宇宙の種のようなものが「ない」とか、まだ何も起こって「ない」とか、何らかの有を否定しないとたどり着けない。これは無が有に先行しているように見えながら、実際は有こそが無に先行しているという証拠にならないか。

では以上のことから、有を真の始まりだと断言していまってもいいのだろうか?だが、そうも断言できそうにない。いくら無を否定しようとも、有の背後には、あり得たかもしれない有以前の無の影がどこまでもつきまとって来るのではないか。いくら振り払おうとしても、どこまでもついて来るような影が。

ここに有→無→有→無・・・の連鎖が続いていく。何が始まりかは確定することができない。それが②の小さい円環が表していることだ。

しかし議論を進めるにあたり、何かしらとっかりがないと何も始まらない。そこで、「とりあえず何かが起こった」ということを発端にして、話を進めていきたい。このスタート地点が、①の(1)の現実に対応している。

実際に何か起こったことだけでは、僕らはぴったりと現実に一致した状態でしかない。このままだと人間を人間足らしめるようなものが存在しなくなってしまう。例えば言語もそのひとつだろう。言語とは現に今ないものを表現することができるからだ。例えば「もし晴れたら、海に行けたのに」と発言したとする。この発言は今目の前にない「晴れ」という状態や、「海」という物質を表現できている。それがなければただ目の前の景色に縛られるだけになる。これは言葉がなければできないことだろう。そこに可能性の種がある。これは反実仮想と言われるものだ。

そこから可能性の種は花を咲かせ、数えられないほどの可能性の果実が現れてくる。上の例では「海に行けのに」としたが、他にも「キャンプに行けのに」とか「サッカーができたのに」という色々なもしもを列挙することができる。さらに過去や未来、はたまた非現実的な世界も同様な仕方で、もしもが積み重なり、無限と言えるほどの可能性が現れてくる。①の(2)の現実・②の無矛盾律・③の様相の豊饒化がそこに対応する。

(1)の現実から(2)の現実にシフトしていくにつれて、現実性は後退していき、可能性が前景化してくる。他と比べようもなかった現実が、そのほかの現実と対等な位置を持つようになる。

豊饒な可能性は、無数に存在する。列挙しようとしても、数え終えることのない無限。それは誰の手にも負えないように見える。しかし、そんな無限な可能性を包み込める、実無限的な何か、そこから何でも出てくるような何か、を想定することができる。具体的な形はないが、そこから何にでも可能なものなら引きづり出せるような混沌。神秘的な感じもするが、同時になんだか不吉な感じもしてくる。

数字のアナロジーでいうと、自然数は列挙する形で(外延的に)アプローチすると終わりのない作業となる。しかし自然数という括りで(内包的に)一挙にまとめてしまうと、無限と思えたものを取り扱うことができる。自然数といっても具体的な数値はイメージできないだろう。とらえどころないもの。しかし自然数のプールにはすべての可能性が詰まっており、そこに手を突っ込むと、必ずや具体的な自然数を引っ張り出すことができる。形はないはずが、そこからどんな形をも作り出すことができる闇。

その何でも生み出してしまう何かを潜在性と呼んでいる。①では(3)の現実・②では矛盾・③では様相のつぶれと表現している。

 

ここままで3つの様相が出てきたことになる。現実性・可能性・潜在性。ここで大事になるのが力としての現実性を、現実性から切り離すことだ。現実性を現実性足らしめているものは何だろうか。それは、「現に」存在している「もの」のうち、「もの」の性質をより細かく追及することではなく、「現に」のほうに重点を置くことだ。顕現した内容ではなく、顕現しているということのほうに目を向けるのだ。

現実性をこのように、力としての現実性に純化させると、この「力としての現実性」は現実性はもちろん、可能性や潜在性にもはたらいているということができる。可能性や潜在性にも、「現に可能である」とか「現に潜在してる」とか言うことができる、いや言えなければいけない。力としての現実性はつまり様相とは関係のない、大きな力の流れとしてとらえることができるのだ。

力としての現実性は、①と③に掛かれている大きな下向きの矢印として表現されている。


ここまでで、一旦打ち切ろうと思う。
前回の最後に行っていた要点に対するある程度の補足にはなっているのではないだろうか。ここで前回の要点をもう一度記載しておく。

①現実性のはたらきを顕現性から分離して、純粋な現実性のはたらきだけを抽出することができるということ。
②その純粋な現実性のはたらきは、現在性・可能性・潜在性のすべてに対して遍くはたらいているということ。

ほかの要素に関しては、また時間をおいて整理してみたいと思う。

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