カテゴリー
哲学

「現実性の問題」①本を読む前に

 今ちょうど、「現実性の問題」という本を読んでいる。著者は入不二基義さん。実は、入不二さんの本を読むのは初めてだ。哲学に興味がありますと言っておきながら入不二さんの本も読んだこともないのか、と思われる人もいるかもしれません。もちろん以前から名前は知っていたし、まったく興味がなかったわけではないのです。ただ、何かにつけて新しいものに手を出すのが苦手で、ついつい自分がすでに贔屓している著者の本を買ってしまう。さらにはその本を2度3度と読むので、尚更新しいものに手が出ない。そんな自分が、今回入不二さんの本を読もうと思ったのは、帯に書いてある言葉が目に入ったからだ。

「現実性こそ神である」

この言葉だ。
この言葉を見たとき、圧縮した何かが閃いた。この言葉と関連するような、今まで読んだり考えたりしたことが一気に頭の中に湧き上がってきた。

その中でも特に関連すると僕が思ったのは、永井均さんの著書、「存在と時間 ――哲学探究1」でのとある議論だ。それは同書の第6章にある「宗教の問題へ」に書かれているもので、そこでは永井さんと中田考さんが一神教についてやり取りをしている。以下、圧縮した閃きを解凍するように、そこでの議論のあらましを書いていく。


一神教とは何なのか。多くの人にとって、この疑問はあまりピンとこないのではないか。「神様を信じるっていっても、科学がここまで発達した時代、そんな非現実的なもの信じられないよ。」そんな反応が聞こえてきそうだ。

しかし一神教の神様が顕現するのは、非現実的な天上の世界ではない。この僕という存在にこそ、神様が顕現するのだ。

これだけではよくわからないと思うので、少しこの道筋を説明していこうと思う。
「なんでこんな風に景色が見えるの?」こう聞かれたらどうこたえるだろうか。「脳があるからだよ。」と答えるのが、今の時代、最も多くの人たちに受け入れられる答えではないだろうか。もう少し細かく説明したほうがいいんじゃないかという人もいるだろうが、煎じ詰めれば脳が原因だ、ということには変わりはない。しかしこの説明では掬い取れないものがある。「なるほど、人はみんな脳を持っていて、だから景色が見えるようになる。それはわかりました。けど、なんでいっぱい脳があるのに、この脳が生み出す景色しか見ることができないの。別にあなたの脳の景色が見れてもよかったのに。」と切り返されたらどうだろうか。「いや、僕の脳とあなたの体はつながっていないじゃないか。だから景色が見えないんだよ」と答えても、それは答えになっていない。「いや仮にあなたの脳が私の体につながっても、景色が見えるのはあなたじゃないですか。」と言われたらそれまでだろう。

今は景色ということだけに絞っていたが、僕が経験することすべてに対して、今の議論は当てはまるだろう。となると脳では、人が経験する理由は説明できても、僕が経験する理由は説明できない。となると、僕の存在ににこそ、理由を求めるべきではないだろうか。「僕が存在するからこそ、世界が経験できているのだ。つまり、僕から世界が開けているのだ。」このように言えるのではないか。

脳では説明できないような、僕の世界の開け。では何が僕の世界を開いてくれたのか。脳で説明できないなら、一体何が?

それが一神教の神様だ。

しかしそれでは、僕らが抱いている神様とはかなりかけ離れた存在になってしまうのではないか。このままだと、神様は僕だけの世界を開いてくれてる「僕だけの神様」になってしまう。そうではなく、神様は人間全員の世界を開いてくれている「みんなの神様」でなければいけないのではないか。「みんなの神様」と言えないなら、それはもう神様ではないような気がする。

つまり、ここに飛躍が生じていることになる。「僕だけの神様」から、「みんなの神様」への飛躍。その飛躍はどうして可能になるのか?

コミュニケーションが成立しているという事実がその飛躍を可能にしている、と答えることができるだろう。もし「僕だけの神様」の世界で生きていると、そもそも自分と対等な他人なんて存在しなことになる。僕だけに世界が開かれているのであり、他人には世界が開かれていないのだから。しかし現実には、他人を自分と対等な存在と見なして、コミュニケーションをとっている。それはつまり、他人も「僕だけの神様」を持っていることを認めることになる。しかし、これはありえないはずのことではないか。「僕だけ」が世界の開けだったから「僕だけの神様」と言っていたのに、それを他人にも認めるということは、「僕だけ」とは言えなくなってしまうのだから。

ありえないはずのことが、現に起こってしまっている。このありえないはずの奇跡がばねとなることで、「僕だけの神様」が「みんなの神様」に変容することを可能にするのだ。

ここで問題は解決したようにも見えるが、まだ一つ問題が残っている。一神教と言っているのに、このままでは「僕だけの神様」と「みんなの神様」という2つの神様がいることになってしまう(2つと数えてしまっていいのかな?)。これはまたどうしたことか。

ここでこの2つ神様を1つの神様と見做すという最後の飛躍を遂げる必要がある。それを可能にするのが、一神教の信仰ということになる。つまり信仰とは、「僕だけの神様」と「みんなの神様」とを同一視することになるのだ。


この閃きがどれほど「現実性の問題」に関連してくるのか、それはまた次回以降に譲ろうと思う。今回はここまでで。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です